北総線 運賃値下げと残る課題~2~

公共

北総線 運賃値下げと残る課題~2~

値下げの裏にあった歴史と苦労

今回の運賃値下げは、北総鉄道が今年6月に発表した2020年度決算で、累積損失が2022年度内に解消する目処がついたとして「運賃値下げの可能性の検討に着手」との記述があったことで明らかになりました。
これを受け複数のメディアが報道し、沿線地域の期待感が一気に沸き立ちます。
北総線の運賃が、際立って高額だった最大の原因こそ、長年苦しんでいたこの累積損失であり、これからの未来を考える上でまずは北総線の歴史を紐解いていきましょう。

千葉ニュータウンと都心を結ぶ鉄道として、1979年3月にⅠ期線の小室~北初富間で営業を始めた北総鉄道(当時は北総開発鉄道)は、当初北初富駅から新京成線に乗り入れて松戸駅までの運転でした。
1991年3月、新鎌ヶ谷~京成高砂間のⅡ期線が開業し、京成線・都営浅草線・京急線との相互直通運転することで悲願の都心乗り入れを果たします。
(新京成線との直通運転は、1994年7月の新鎌ヶ谷~北初富間廃止をもって終了)

一方、小室以東については、本八幡~新鎌ヶ谷~印旛松虫(現在の印旛日本医大)間で計画されていた千葉県営鉄道北千葉線が担う予定でした。(新鎌ヶ谷~小室間は北総線と並走を想定)
千葉ニュータウン事業に参加していた宅地開発公団(後の住宅・都市整備公団 現在のUR都市再生機構)は、千葉県の委託を受け、小室~印旛松虫間の建設に着手しますが、その最中に計画変更により北千葉線事業は凍結されてしまいます。
建設していた公団は、鉄道設備を保有することになり、営業面は北総が行う形態で決着し、1984年3月に小室~千葉ニュータウン中央間を開業させ、北総線・新京成線と直通運転を始めます。
その後、同じく公団の手により1995年3月に印西牧の原まで、2000年7月には印旛日本医大までの全線が開通します公団9000形車両

公団は公共事業民営化の流れを受け、2004年のUR化の際に鉄道事業から撤退しますが、小室~印旛日本医大間の鉄道設備は京成電鉄の100%子会社として設立された千葉ニュータウン鉄道に譲渡され、委託関係は変わらず現在に至ります。

つまり北総線の小室~印旛日本医大間は、開業以来現在まで北総鉄道の所有ではなく、設備の使用料を支払って営業しています。

鉄道事業は社会インフラですが、日本では原則として独立した採算性が求められており、一定程度の利用者が安定的に存在する環境で成立する業態です。
ところが北総鉄道では、バブル期に重なったⅡ期線の延伸工事や、沿線開発の遅れ、東京圏の人口集中が鈍化したことによる千葉ニュータウン計画の大幅縮小が主因となり利用者数が伸び悩み、経営状態は悪化の一途を辿り、遂には債務超過に陥ります。

そして2000年3月期の累積損失は約447億円を計上します。

その後、緩やかながら沿線開発が進み、企業誘致も盛んに行われたことや、2010年7月の成田スカイアクセス線開通による利便性向上などの成果が現れ、徐々に利用者も増加します。

しかし、厳しい経営の改善のため、開業当時から他社より高い北総線の運賃は、その後も幾度かの値上げが実施され、いつしか高額運賃鉄道の代名詞のように扱われます。
「財布落としても定期落とすな」「通勤費のせいで内定がもらえない」「都内の学校への進学を諦めた」などの言葉は、北総線住民なら一度は耳にしたはずです。
そのような状況から、一部の住民団体の手により北総線より安く利用できるバス運行が始まったり、高額運賃を理由とする訴訟が起きるなど、運賃問題は泥沼化していきました。

次号では、北総鉄道が経営危機を脱し、運賃値下げにどう向き合ったか。そして、これから地域や住民がすべきことを考えていきます。

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